エイミとチー兄ぃのSS

 少し前に書いて、ひと通り完結まで持っていったものの、結末があまり気に入らなかったので書きなおしてここにおいておきます。

 二階から目薬なんてことわざは、なぜか意味を知らずに言葉だけ覚えてる。このことをふと思い出すたびに、そうだ調べなきゃってどこかにメモをしたりするんだけど、毎回忘れてしまう。なぜなら思い出すのは、だいたいわたしが目薬をさそうとしていて悪戦苦闘している時で、どたばたやっている内に、さし逃した目薬と一緒に記憶も流れてしまうからだ。
「お前、これの使い方に関してはなかなか進歩せんな。これまでお前のさしっぷりを散々眺めてきたが」
わたしに対して、チー兄ぃがなにか言っている。洋服タンスの上でお行儀よく座ってるチー兄ぃは、わたしが目薬をさす度に「よし、もう少し頭のうえのほうだ」とか「違う、もっと右に寄せて」とかアドバイスをくれる。くれるのだけれど、わたしからしてみればそういう情報が余計に目薬注しの難易度を高くさせているというか、なんというか。
 昔のわたしは、目薬に関してはお母さんに頼りっきりだったなということを、ふと思い出す。正座したお母さんが、ぽんぽんと脚を叩いて、「こっちに横になって」と示せば、それにしたがって、わたしはお母さんの太ももを枕に仰向けにごろんする。お母さんがわたしの頬を軽くふれ、その後にわたしのまぶたを長い指で大きく見開かせる。そしてお薬点眼。わたしがお母さんを信用していたからか、それともお母さんの手際がとても良かったのか、今はその理由を思い出せないのだけれど、毎度のことながらスムーズに目薬をさすことができていたな、と今になっても思う。
「なあ、もういい加減自分一人で目薬をさすのは諦めたらどうだ。少し前と違って、今は頼めば手伝ってくれる奴がいるだろうに」とチー兄ぃは言う。おそらく一ノ瀬さんのことを言っているのだろう。
 一ノ瀬さんは、チー兄ぃとのテレポートでの逃走の果てに出会った、普通の人のようで、でもそうでもないような、不思議な人だ。確かに今、そういうことを手軽に引き受けてくれる知り合いはあの人しかいない。でも、練習すればできるようなことを、そう易々と諦めるわけにはいかないのだ。
「や、こう練習して、そのうちちゃんと一人で目薬、打てるようになるし。ほら、この前よりも結構点眼できるようになっとるよ」
「今日に関しては全六十発中五発が的中といったところだ。的中率約8.333%は『結構』と言うには低すぎる」
「う」
チー兄ぃはすぐにそんなことを言う。こっちは努力しとるのに。
「そんな、そんな言い方はない思うよ……」
「頑張っていることは認める。だが、現状ではあまりにも薬を浪費しすぎだ。必要なときには、確実に点眼する手段を持っておくのは悪いことではない。薬の浪費による資金の問題もあるしな。それに」と、チー兄ぃは一旦話をきり、それから心配そうに、
「その赤い目をどうにかするのが最優先だ。見てられんぞ」
花粉症で、わたしの目はとても充血していたのだ。


「やあ、チー兄ぃとエイミちゃ、ってどうしたの、その目」
一ノ瀬さんの部屋にテレポーテーションで到着してすぐ、彼女はわたしの顔をひと目見て、とても驚いた様子だった。
「花粉症になったみたいなんです。去年はこんなことなかったのに」
「それは辛いな、うん。ほんとに辛い。ちょっと待って、薬は持ってる?」
「あ、はい。あの。今日は、その。目薬さすのを手伝ってもらいたい、思いまして」
「いいよ、ちょっとそこのソファに横になってて」
一ノ瀬さんが指さした先には、さも先ほどまでずっとあったかのように、ソファがどっしりと部屋を占領していた。
 一ノ瀬さんの部屋というのは、いつ来ても不思議な空間だなと感じる。なにもないようで、でも気づいたら目の前にテレビがあったり、ベッドやソファが現れたり、壁とドアが見つかったりする。なんでこんな不思議な部屋に住んでるのか一ノ瀬さんに何度か訪ねてみたことがあるのだけど、その度に笑ってはぐらかされたり、なにか言ってくれたとしても「一体なんでだろうね」と、いまいちぴんとこない返答をされて、もやもやすることがほとんど。そのうちにわたしは聞くことを諦めたのだった。
 ソファに座ると、その横に一ノ瀬さんが座った。そして彼女は、自分の脚をぽんぽんと叩いてこう言う。
「さ、ここを枕に仰向けに寝なさい。すぐに終わるから」
「おい。その状態でエイミになにかおかしなことをしてみろ。俺はお前を許さないからな」
「つくづく愛想のない猫だなあ。もう少し人を信用するのならまだ可愛げがあるのに」
一ノ瀬さんとチー兄ぃがいつものように互いに牽制しあっている。もう少し仲良くなってくれたらいいのになと、この光景を見る度に少し思う。
「申し訳ないが、性悪説こそノラネコの行動理念でな、さあ、早くエイミを」
チー兄ぃの指示に合わせて、わたしはストン、と、一ノ瀬さんの太ももの上に頭を載せた。
 見上げると、一ノ瀬さんの顔が見えた。肩にかからないぐらいの長さの、でも短すぎないその髪は、ちょうど一ノ瀬さんの片目を隠すように整えられている。つけている香水なのか、柑橘類の香りが一ノ瀬さんの周りに漂っている。
「いい、リラックスして」一ノ瀬さんの声を聞き、わたしは呼吸を落ち着かせようとする。ゆっくりと息を吸って、吐く。それなのに、緊張からか自分の心臓の鼓動がどんどん速くなっていく。彼女の指がわたしの頬を軽く撫で、そしてまぶたに添えられた。
 一ノ瀬さんの手で見開かされたわたしの眼に、もう一方の手で目薬が点滴される。一滴。二滴。反対側の眼にも指を添えられ、一滴、二滴。まつげに少し雫が引っかかったのか、まぶたに冷たさを覚えた後、そのまま首へ流れていくものを感じた。


「よし、できた」わたしの頭の上の一ノ瀬さんが、安心させるためか軽く微笑んでくれた。
「ありがとうございます」と、わたしは彼女を見上げて礼を言う。
「いいよ。こういうことなら、いつでも頼ってくれていいから」
そう言って、一ノ瀬さんはわたしの頭を撫でてくれた。お姉さんがいたら、きっとこういうこともしてくれるんだろうか。
「お姉さん?」と一ノ瀬さんが聞き返す。しまった、口に出していたらしい。
「お兄さんなら、チー兄ぃがいるじゃないの。ほら、あそこに座っている」と、彼女はソファの端でむくれているチー兄ぃを指さした。こちらの様子を見て、一目見てわかるような皺を眉間に寄せている。
「えっと、あの……お兄さんはお兄さんやし、だいたい膝枕してくれるくらい大きないですし」
「悪かったな、ちっこくて」
チー兄ぃの機嫌が更に悪い方に傾いてしまった。
「だいたい、目薬なんてものはとっとと一人でさせるようになるべきなんだ。今回お前を頼ったのは、エイミの目と、懐の具合も考慮した上での緊急事態だったからでな」
「ふうん……拗ねてるな」一ノ瀬さんがニヤニヤしている。
「拗ねていない」
「拗ねてるよね、ねー」と、何故か耳を重点的に撫でながら一ノ瀬さんはわたしに聞いてきた。
「ひゃ……あ、あの、ちょっと、そこは」
「おい、いい加減に離れろ小娘」
「いやー、エイミちゃんがこんなに近くにいることも珍しいしねー。もう少し私に楽しませてもらってもいいんじゃない?」
そう言って、突然一ノ瀬さんはわたしに顔を近づけて、
「んっ」
「ひゃあ」
おでこにキスをされた。
「おおお……おま、一ノ瀬、おま」
「ふふふ、フェイントでした。てっきり唇の方に行くと思っていたでしょう、えっちなチー兄ぃくんは」
とっさの出来事に、チー兄ぃはうまく反応しきれていない。それはわたしも同じで、ただただ目を丸くするばかりだった。


「ああ、あいつを少しでも信用していた俺が馬鹿だったよ。エイミ、やはりお前は一人で目薬をさせるようになるべきだ」半ば無理やりわたし達の部屋に帰った後、お憤りのチー兄ぃがわたしにこう言った。
「結局こうなるんやね。いつものことやーとは思うけど」
一ノ瀬さんに会いに行くと、大抵一ノ瀬さんがわたしにちょっかいを出して、その度にチー兄ぃが止めに入ってこちらに戻るというのを繰り返していた。まるでどこかの新喜劇のようなお約束の展開だと、わたしは思う。
「いつものこと……そうか。お前もあいつのスキンシップに慣れたものだな」と、呆れられながらチー兄ぃに言われる。
「え、そ、そんなことないよ! 多分」
「それにしたって、普通はあのようなことをされて、怒らないヒトもいないと思うが」
そうなのかもしれない。でも、一ノ瀬さんに限って言えば、あまりそういう気も起こらないのは確かだった。なんというか、お姉さんに甘えていることの延長線上というか、そんなイメージだったから。
「もう少しだけ、一ノ瀬さんに甘えたかったな」
「ん、なにか言ったか」
「ううん、何も」
 外に干していたお布団を取り入れ、そこに向かってダイブする。ぼふり、という音とともにわたしの体がそこに沈み込んだ。すこしお昼寝をしようと思う。あの柑橘類の香りを思い浮かべて夢を見れば、その中で一ノ瀬さんに会えるかもしれないし。